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ああ、真っ暗だ。

身体に絡みつく暖かくて心地よい水。

呼吸もしなくていい。

臍から栄養が流れ込む。

全てが平穏だ。

ここは胎内だ。

私は胎児だ。

さっき意識が覚醒してからずっと、そう思おうと頑張っていた。が、もう限界だ。何かがおかしい。そうだ。私が胎児であるには、ここが胎内だと分かってしまってはおかしいのだ。胎児とはおそらく何もわからない、真っさらなキャンバスのはずだ。

何故かわたしのキャンバスは下塗りが終わっているのだ。胎児は呼吸も、平穏も知らないものだろう。わたしはその概念を知ってしまっている。

 

ああ。誰か教えてくれ。ここはどこで、わたしは何者なのか。教えてくれ…

 

その考えに呼応したように、不意にタシ、タシ、と、足音が聞こえる。

願ったりかなったりである。わたしを早くここから出してくれ。

かちゃかちゃ機械をいじる音がしたあと、急に視界が明るくなる。眩しさに目を細める。

 

そして…目の前に立っているのは、巨大なバケモノであった。

 

わたしは恐怖感を感じ少し羊水を飲み込んだ。この中にいなかったら背中に冷や汗が流れていただろう。

体をこわばらせ身構えていると、急にバケモノは大ぶりなジェスチャーをしながら喋った。

「あっ!お目覚めですかハカセ!やった!よかった!」

甲高い声で喋る名服し難い巨大なバケモノが、わたしの方を見てぴょこんぴょこん跳ねる。

なんなんだこいつは!まあ、敵意はなさそうだし意思疎通もできそうだ。本当にわたしは運がいい。

「ここから出してあげますね。」

本当に出してくれるようだ。ものすごく事がスイスイ運ぶ。

 

「お腹のホースは脱落しますからちょっと苦しいと思いますが…頭を下にしてください…そうです…」

なんだその指示は。本当に胎内である。

逆さまになりながらそんな事を考えていると急に苦しくなってきた。腹のホースが脱落したようだ。

透明な袋が縮み、身体がどんどん下へと押しだされている。

これじゃあまるで出産だ。

なんだかよく見えないが、どんどん狭くなる。

覚悟はしていたがやはり苦しい。

「頑張ってくださいハカセ!」

何を頑張れと言うのだ。

そう思っていると柔らかい皮が体に絡みつき、一気に出口に引きづり降ろされる。

そしてわたしはクッションの上に、羊水と一緒に産み落とされた。実際の出産とは違い、自動販売機くらいのあっけなさである。

「ハカセ〜!大丈夫ですか〜!!傷とか捻転とか無いですか〜!!」

「グエッホゲッホオエッ ゲホ…うえ…」

人が必死に呼吸をするために肺から羊水を出しているというのに、バケモノは話しかけてくる。

「ハカセビチャビチャデロデロですね…えっと…とりあえず…お風呂ですかね」

まだ呼吸も整っていないわたしをひょいと持ち上げられ、風呂に連れていかれた。

 

全くどういう状況だ。白い大きなバケモノに全身くまなく洗われている。

湯が少し冷たいし、ぬるぬるしている気がするが贅沢は言えない。

「大丈夫ですか?ちゃんと呼吸出来てますか?」

「ああ、大丈夫だ、喋れるくらいにはなった」

「身体機能にさしつかえがないか後で検査しますね」

「そうか…」

右も左も何もわからないわたしにとっては、彼(彼女?)の言葉に素直に従うしかない。

「ところでハカセ…もしかして…ボクのこと覚えてない…?」

「…? 覚えている とは? あんたとは前にも面識があったということか?」

もっというと、自分が何故ハカセと呼ばれているのすら不明である。

「え…本当に覚えてないじゃん…ハカセェ」

バケモノは愛おしそうにわたしを抱き寄せる。鋭い爪が少し怖い。

「ボクの顔見てちょっと怯えたでしょ?まさかなーとは思ったんだけど…本当に覚えてないんだね…」

とても寂しそうな声であった。先程の黄色い声とはまるで違う。私が伴侶だったかの落ち込みようだ

 

「僕はジローと言いまして、ハカセの作った人造人間です。ハカセ…アキイチハカセは、僕や他の人造人間を造っていたニンゲンです。」

「へ、へえ…そうかい…」

​わたしは顔が少し引きつった。

「アキイチハカセはボクにとってもよくしてくれました…爪を研いてくれたり、洗ってくれたり、遊んでくれたり、ボクをよく思わない人に立ち向かってくれたり、…一緒に戦場に立ったこともあります。」

「ほ、ほう、それで…?」

「ハカセはボクより脆いいきもののはずなのに…僕の中にはもう人造人間の因子が入ってるとか言ってへんなハッタリかまして…最後まで…命尽きるまで…酷いケガした僕を庇って…ボクも…気を失って…」

バケモノは泣きじゃくるような仕草をした。身体にある緑色の透き通った管の表面からさらさら液体が滲み出る。

彼の話を信じて良いのか良くないのか。まあ矛盾はないし、今のところわたしが頼れるのは彼しかいない。

「そうか、大丈夫だ、泣くな…わたしがそのアキイチハカセとやらなら、まだ生きていたということだろう…存分に再会を喜ぶんだな」

適当に慰めると、バケモノは何も言わずに強く抱きしめてきた。左手の爪はわたしに触れないように、右手で防いでいた。さっきまでしなかった、水滴の落ちる音がする。

 

排水溝に何かが、おそらく彼の血液と、水が流れる音だけが、空間に響いていた。

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